「愛」に生かされ「夢」に生きる
表示灯株式会社 取締役会長 吉田 大士(ヨシダ モトヒト)
| 昭和16年 5月生まれ | |
| 昭和35年 3月 | 名古屋市立向陽高等学校卒業 |
| 昭和35年 4月 | 株式会社清玉刃物製作所(実父経営)入社 |
| 昭和42年 4月 | 日本交通表示灯株式会社設立 代表取締役社長 |
| 平成52年 4月 | 表示灯株式会社に社名変更 |
| 平成11年 3月 | 同社 代表取締役会長 |
| 平成14年 6月 | 社団法人日本ホッケー協会 会長 |
| 平成15年 3月 | 表示灯株式会社 取締役会長 |
| 現在に至る | |
ラブ イズ ゴッド、人を好きになる、慈愛、誠実、思いやり、「愛」と云う世界を意識するようになったのは、十才の頃、私の乱読時代の頃かと思います。鴎外、露伴、藤村、啄木、龍之介、英治、靖、ユーゴー、パール・バック、ヘミングウェイ、・・・・それは愛とロマン・・・・。
私が自身の名「大士・もとひと」を意識する事になったのは、小学校二年生の時でした。私はその年、夏から冬にかけて「肋膜炎」で病床にありました。父親が私の額に手をやって「モトヒト、お前の名前は『大士』と云うんだよ、大きなサムライ、『おおもののふ』と書くんだよ、病に負けていては名前が泣くよ。元気をだしなさい」
。病が癒えると父は、「お前は常に『名前』に恥じる事をするな、『おおもののふ』に一歩でも近づきなさい、そして何時か『おおもののふ』になりなさい。」私はその日から、名前と二人三脚を始めました、時には永遠のライバルとして、時には限りない重き足かせとして。実に「夢と冒険」の世界への船出をしたのです。
高等学校へ入ると当時日本の一番、二番を競っていたホッケー部へ入りました。「紅く燃えて」。されど見事にしごきと鉄拳の地獄でした。私に与えられたポジションはゴールキーパーと云う唯、只管に守り抜く、耐え抜く事をよしとする守りの世界でしたが、私はそこで「大士」と云う名にチャレンジをしていく上で最大の支えとなる『「不負の心」―にげないこと、あきらめないこと、これは根気であり、それは努力である。』(現在、我社の社訓)を手に入れたのでした。
一九六七年、大いなる野望のもと、会社創設にあたって、社名をあえて「日本交通表示灯株式会社」としたのも、名前にトライする心でした。北海道から九州まで、同じ社章のもと、各々が商いをする時に、初めて「日本交通表示灯」になる。スタートからの「目標設定」は、合言葉、共有する意識となりました。(全国に拠点ができました時点で、現社名に変更)。
一九七一年ニクソンショックに遭遇、私達が目標設定したのは、この経済破壊の中での企業競争こそ、「後発企業・新店」と呼ばれた世界からの脱出行である。不況の河を私達は「不負の心」で渡る、生き残るべく向こう岸へ渡る橋こそ、「虹」の架け橋なり、「レインボーウォ―」
は、一九七二年全社スローガンとなりました。
遠くに人の声がします「血をはいて倒れたぞ、救急車、救急車をすぐ呼べ・・・」 気付くと私は血の海の中に横たわっていました。札幌パークホテル、四十歳の時でした。それは四度目の吐血でした。潰瘍でした。主治医は「大ちゃん、ストレス発散の為、何でもよいから強烈に没頭できる趣味を作りなさい」。私は一度死にそうになったスキューバダイビングを本格的に再開しました。やがてダイビングは、私のライフスタイルとなりました。世界中の海でボンベ六百本は潜ったでしょうか、特に南の島では、「青い空、白い雲、エメラルドグリーンの海、そして赤・青・黄サンゴのお花畑に色とりどりのお魚さん、そうです竜宮城なのです」そして潰瘍とはサヨナラをしました。
私の人生のベースは、「おおもののふ」にトライする事であり、それは、生涯― 学ぶと学ばざるにある ― に繋がり、「おおもののふ」こそが持つ、計り知れない愛の心と、夢に立ち向う果てしない挑戦の姿に、私は今日もトライしています。
(次号3月号は、マルヤス工業株式会社 取締役社長 山田隆雄様にお願い致します)


