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トップページ > Employer - 2008年2月

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「愛」に生かされ「夢」に生きる

表示灯株式会社 取締役会長 吉田 大士(ヨシダ モトヒト)

表示灯 吉田会長
昭和16年 5月生まれ
昭和35年 3月 名古屋市立向陽高等学校卒業
昭和35年 4月 株式会社清玉刃物製作所(実父経営)入社
昭和42年 4月 日本交通表示灯株式会社設立 代表取締役社長
平成52年 4月 表示灯株式会社に社名変更
平成11年 3月 同社 代表取締役会長
平成14年 6月 社団法人日本ホッケー協会 会長
平成15年 3月 表示灯株式会社 取締役会長
現在に至る

 ラブ イズ ゴッド、人を好きになる、慈愛、誠実、思いやり、「愛」と云う世界を意識するようになったのは、十才の頃、私の乱読時代の頃かと思います。鴎外、露伴、藤村、啄木、龍之介、英治、靖、ユーゴー、パール・バック、ヘミングウェイ、・・・・それは愛とロマン・・・・。
 私が自身の名「大士・もとひと」を意識する事になったのは、小学校二年生の時でした。私はその年、夏から冬にかけて「肋膜炎」で病床にありました。父親が私の額に手をやって「モトヒト、お前の名前は『大士』と云うんだよ、大きなサムライ、『おおもののふ』と書くんだよ、病に負けていては名前が泣くよ。元気をだしなさい」 。病が癒えると父は、「お前は常に『名前』に恥じる事をするな、『おおもののふ』に一歩でも近づきなさい、そして何時か『おおもののふ』になりなさい。」私はその日から、名前と二人三脚を始めました、時には永遠のライバルとして、時には限りない重き足かせとして。実に「夢と冒険」の世界への船出をしたのです。
 高等学校へ入ると当時日本の一番、二番を競っていたホッケー部へ入りました。「紅く燃えて」。されど見事にしごきと鉄拳の地獄でした。私に与えられたポジションはゴールキーパーと云う唯、只管に守り抜く、耐え抜く事をよしとする守りの世界でしたが、私はそこで「大士」と云う名にチャレンジをしていく上で最大の支えとなる『「不負の心」―にげないこと、あきらめないこと、これは根気であり、それは努力である。』(現在、我社の社訓)を手に入れたのでした。
 一九六七年、大いなる野望のもと、会社創設にあたって、社名をあえて「日本交通表示灯株式会社」としたのも、名前にトライする心でした。北海道から九州まで、同じ社章のもと、各々が商いをする時に、初めて「日本交通表示灯」になる。スタートからの「目標設定」は、合言葉、共有する意識となりました。(全国に拠点ができました時点で、現社名に変更)。
 一九七一年ニクソンショックに遭遇、私達が目標設定したのは、この経済破壊の中での企業競争こそ、「後発企業・新店」と呼ばれた世界からの脱出行である。不況の河を私達は「不負の心」で渡る、生き残るべく向こう岸へ渡る橋こそ、「虹」の架け橋なり、「レインボーウォ―」 は、一九七二年全社スローガンとなりました。
 遠くに人の声がします「血をはいて倒れたぞ、救急車、救急車をすぐ呼べ・・・」 気付くと私は血の海の中に横たわっていました。札幌パークホテル、四十歳の時でした。それは四度目の吐血でした。潰瘍でした。主治医は「大ちゃん、ストレス発散の為、何でもよいから強烈に没頭できる趣味を作りなさい」。私は一度死にそうになったスキューバダイビングを本格的に再開しました。やがてダイビングは、私のライフスタイルとなりました。世界中の海でボンベ六百本は潜ったでしょうか、特に南の島では、「青い空、白い雲、エメラルドグリーンの海、そして赤・青・黄サンゴのお花畑に色とりどりのお魚さん、そうです竜宮城なのです」そして潰瘍とはサヨナラをしました。
 私の人生のベースは、「おおもののふ」にトライする事であり、それは、生涯― 学ぶと学ばざるにある ― に繋がり、「おおもののふ」こそが持つ、計り知れない愛の心と、夢に立ち向う果てしない挑戦の姿に、私は今日もトライしています。

(次号3月号は、マルヤス工業株式会社 取締役社長 山田隆雄様にお願い致します)