「古傷」
旭産業株式会社 代表取締役会長 星川直志(ホシカワ ナオシ)
| 1934年 3月生まれ | |
| 1952年10月 | 旭産業有限会社入社 |
| 1967年 4月 | 同社 取締役 |
| 1970年 6月 | 旭産業株式会社に改組 |
| 1977年 6月 | 同社 代表取締役 |
| 2004年 6月 | 同社 代表取締役会長 |
| 現在に至る | |
このページにはあまり相応しくない私事で申し訳ありませんがお許しをいただきたい。
昨年の7月に中国黒龍江省牡丹江から更に400_ほどロシア方面、ウラジオストックと北朝鮮の国境にほど近い東寧(トンニン)まで行ってきた。何故か私が9歳のときに急逝した父の夢を度々見るようになったからだ。
私の父は戦前満州国の国策会社である満州炭鉱の社員であったようだ。業務にて僻地の東寧の炭鉱に出張し、現地で脳溢血に倒れそのまま帰らぬ人となった。享年39歳。母はその時35歳、男女3人ずつの6人の子持ちの未亡人となった。当時の住居は新京(現・長春)にあり、汽車で36時間ほどかかって東寧に着いたように思う。着いた時にはすでに白い布で父の顔は覆われ、死に目には会うことが出来なかった。寺も僧侶も居ない僻地なので葬儀らしいことは出来ず、同僚の方が長方形の穴を掘り、そこに何本かのレールを渡し、棺を安置し、薪を乗せガソリンを振りかけ、芒の穂を何本か束ねて火をつけた記憶がある。燃え上がる炎と地平線に沈む夕日が今でも脳裏から消えない。他に父の思い出はあまりないのに、老境に入ったせいか64年を経て供養に行く気になった。「供養に行くが一緒に行かないか」と家内に同行を求めたが、言下に「そんな辺鄙なところなんて厭々。あんた一人で行ってりゃあ」と断られてしまった。気楽な一人旅もまた好しと思っていたが、「俺を連れて行け」という物好きな友人が現れ、思いがけない二人連れで、家内の心づくしのお供えを持参して出かけた。
日本から牡丹江へは飛行機の直行便はなく、まず上海で牡丹江行きの飛行機に乗り換え、牡丹江から汽車はあるが時間がかかるため車で東寧まで行った。日本人が泊まるような宿はなく日帰りをした。朝6時に牡丹江を発ち、道路が高速道路並みに整備されているのに驚きながら、11時頃には目的地に着いた。昭和17年頃の満炭操業の炭鉱を探すこと2時間あまり。その地の多くの老人に訪ね歩いたが、現在炭鉱は跡形もないとの結論に達した。供養せずに帰るわけにも行かず、どこか所縁の場所を探していたら、当時の日本からの開拓団が建てた東寧神社跡があると判り訪れることにした。小高い丘の上にそれはあり、現在お社はなく革命の塔が立ち、公園になっていた。その塔に敬意を表することは出来ても、線香を立てるわけにもゆかずに周囲を見回すと、少し奥の木立の中に小さめの事務机ほどの大きさの御影石で作った菊の御紋と「奉納」と刻まれた手洗いがあった。この正面に持参のお供えと線香を添え、クリスチャンの友人と手を合わせ瞑目し祈りを捧げ、今日までの無事を感謝し、なんとなく肩の荷が降りた気がした。私なりの供養の後、何気にその手洗いの後ろ回ってみた。そこにはかなり以前に供えたと思われる線香の燃え残りと日本の煙草が置かれており、明らかな供養の跡を前に私は立ち尽くした。この供養に来た方は、生死の境を脱出できず、故国へ帰ることができなかった縁者に線香を手向けたのだ、と思うと涙が止まらなかった。
牡丹江に帰り、精進落としに一杯やろうと友人と街に出て食堂に入った。朝鮮族が多い土地で、たくさんの朝鮮風の食べ物にビールと白酎をしたたか飲んだが、その夜中に猛烈な下痢に悩まされたことは言うまでもない。
翌日帰国まで牡丹江郊外に観光へ出掛けたが、物見遊山に適した所ではない。鏡月湖という大きな湖から落差50mほどの滝があり、滝壷が青黒く不気味に見えた。ガイドの話によると、ソ連軍に追われた子連れ等の開拓団の人達が逃げ切れずにその滝壺に身を投げたり、乳呑児に与える乳も出ず、食べるものもない人達がその湖に子供を沈めて去って行ったという。運よく故国にたどり着いたが、忘れることが出来ずに再びこの地を訪れ涙する日本人も時々見かけるとも聞き、胸が詰まる思いがした。
私はこの旅を人生のひとつの区切りと思ったが、どうも区切れそうにはない。あの悲惨な戦争の古傷に触れてしまったからだ。
数年前に母もお釈迦様のもとに旅立ったが、天国で待っていた39歳の父は、90歳に及ぶ母を見つけ、会うことが出来たのか?と今も心配している。
(次号12月号は、丸菱工業株式会社 代表取締役会長 河村嘉男様にお願い致します)


