「観空」
野村證券株式会社 常務執行役 名古屋駐在 松本 学(まつもと まなぶ)
| 昭和25年6月19日神奈川県生まれ | |
| 昭和50年 3月 | 慶応義塾大学 経済学部卒業 |
| 同 年 4月 | 野村證券株式会社 入社 |
| 平成 7年 6月 | 同社 事業法人三部 部長 |
| 平成10年 6月 | 同社 取締役 営業業務本部 法人業務担当 |
| 平成13年 6月 | 同社 常務取締役 営業業務本部 支店経営担当 |
| 平成14年 6月 | 同社 常務取締役 名古屋駐在兼名古屋支店長 |
| 平成16年 7月 | 野村ホールディングス株式会社 執行役 |
| 野村證券株式会社 常務執行役 名古屋駐在 | |
| 現在に至る | |
昨年父を送った。享年92才であった。母を亡くして22年目の秋のことであった。師走に父の四十九日、母の二十三回忌と法事が続き、日頃仏事と縁の少ない私であるが、一人子のせいもあり色々考えさせられた。22年前に母を亡くした時、私は31才であった。既に家庭を持ち三人目の娘が生まれたばかりであった。母は行年64才父は古稀を過ぎていた。葬儀の後父はショックで入院した。転勤族の私は父母と一緒には住んでおらず高齢の父を一人置いて今の仕事は無理だと考え、辞表を胸のポケットに入れた。提出する前に一人の先輩に相談した。「辞めたらいかん!よく考えろ!」強い口調で言われた。悩んだ揚句、一年たっても考えが変わらず、状況も今のままなら辞めよう、とにかく一年は現状の中でもがいてみようと心に決めた。母を亡くした悲しみ、父の病状の心配、うまくいかない仕事、七転八倒、四苦八苦の状態であった。
しかし、半年一年とたつ内に父は退院し元気を取り戻して来た。それと同時に私の仕事もだんだん軌道に乗り、一年目を迎えた。これなら何とかやっていける、と私も自信を取り戻した。それ以来20年余り、父は一人で田舎の実家で頑張った。私は東京・浜松・千葉・東京・名古屋と転勤族を続けてきた。
そして昨年秋、私の自宅の近くの病院で、父は眠るように息を引き取った。大往生であったと思う。その日の父は、病状頗る良く、看護婦さんにリンゴジュースを頼み、一口飲んで「旨いなあ」と言った、その後ちょっと看護婦さんが病室を離れた瞬間の出来事であった。あまりにも突然で死に目には誰も会えなかった。父はたった一人で往ってしまった、「旨いなあ」が最期の言葉になった。すぐに駆け付けた家内から大変穏やかで、安らかな表情だったと聞いた。
その日から二日二晩父と二人で自宅で過ごした。何故か私の心も安らかで、不思議な程の透明な哀しみであった。あれから父は、20年余り一人で暮らし、庭で野菜を作り、それを食し、明治生まれらしく頑強な生涯を送った。三日目の通夜の晩、ふと私は呟いた「親父、これでずっと一緒に居られるな!」・・・・
つまり、心の世界では父母が生きているとか死んでいるとか云う現象(人はそれを存在と云うが…)は関係ない。私の心の中には常に父母は生きて在るのである。又更に言えば私の体の中にもDNAとして父母は在る。父母のみならず先祖代々、もっと言えば地球に生物が発生して以来、更に言えば地球誕生以来のDNAが在るのだ。
その様なことが最近少しずつ分かり出し、…不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中…を実感している。宇宙とか地球とか云う観点から見ると、私達が目にする又、五感で認識する存在とは瞬きの間の現像であり、少なくとも心の世界ではそう云う事に一喜一憂する必要はない。
常に、大らかな空のように、大らかな心でありたい、と思う。
亡き父母と不生不滅の屠蘇を酌み
と、今年の句会で詠んだところ、
薨りし義母と会えしか冬ぬくし
と、妻が詠んでくれた。
合掌
(次号11月号は、大同メタル工業株式会社 代表取締役社長 判治 誠吾様にお願い致します。)


