「メンタルヘルス対策と企業の活性化」
産業医科大学 副学長 森 厚爾
従業員のメンタルヘルス不全は企業経営にとって大きなリスクとなり、その対策は重要な経営課題です。
このような問題を引き起こす前に、危機管理としてのメンタルヘルスに対する取組みが企業に求められています。
そこで、メンタルヘルス不全の従業員が発生した場合の対処療法だけではなく、その予防策として事前にリスクを回避するためには、企業経営者や人事担当者が何をすべきか、産業医科大学 副学長の森 晃爾様より解説していただきます。
メンタルヘルス問題の現況
最近会話を交わした企業の人事担当者の多くが「メンタルヘルスの問題で困っている」と言う。確かに、毎年自殺者が3万人台(このうち労働者の自殺が占める割合は、約4分の1のおよそ8?9千人)から減少せず、また40代や50代の働き盛りの世代が増加したことからしても、働く人のメンタルヘルスの問題は、企業人事に大きな課題となっている。
しかし、医療統計や疾病統計から割り出される課題と、企業内での「困った」という実感は必ずしも同じではない。メンタルヘルスの問題が「困った」と認識されるのは、メンタルヘルス不全の発生そのものだけではなく、「発生した事例に対してどのように対応してよいか分からない」といった対応の側面も含んでいるからである。メンタルヘルスの問題がクローズアップされている現在の状況の背景には、社会の変化や競争に伴うストレスの増加や将来に対する不安などの発生要因の増大とともに、企業が従業員に発生した問題に対応する余力を失っていることもあるのではないだろうか。
人員に余裕があったときには、たとえば10人の職場で1人に問題が発生しても、11人体制にすることによってそれをカバーしたり、1人のために新たな業務を作って組織全体で抱えることが可能であった。しかし、人員に余裕がなく、問題が発生しても同じ業務をそのままの組織で対応することになれば、当然のことながら残りの9人に影響が及ぶ。このような問題への対応は本来管理職の仕事であるが、以前は部下の管理が主な業務であった管理職は、部下の管理とともに自分自身の担当業務を抱えるプレイングマネージャー化しており、対応が困難になってきている。それでもうまく回復したり、回復しないまでも組織で抱えることができればよいのだが、企業が人員削減をしている状況においては、ある段階までに戦力として活用できる状態に回復しない場合には、全体のバランスからして「辞めてもらう」ために仕向けることになる。
しかし、従業員と会社との間に親密な関係が存在したときとは異なり、過労自殺、メンタルヘルス不全の発生、雇用関係の問題など、メンタルヘルスの問題は慎重に対処しないと、場合によっては訴訟につながる経営上のリスクとして認識すべきである。
メンタルヘルス問題による企業経営への影響
メンタルヘルス問題は、企業経営に様々な側面で影響を及ぼす大きな経営課題と捉えるべきである。現代の企業で行われる根幹的労働は、知識労働と呼ばれる特徴がある。知識労働は、肉体労働と異なり、業務に集中し、アイデアを出し、それを実現することに生産性がかかっている。このような労働には、一人の従業員の内面で完結せず、従業員同士や顧客との相互関係の中で生産性が発揮されるという側面がある。そのため、知識労働を通じて企業が売上げを伸ばし、発展するためには、従業員への教育投資が非常に重要であり、対人スキルも求められる。したがって、成果を上げるためには精神的に健康であることが不可欠であり、肉体的に健康であることより生産性に直結すると言える。このような業務を行う従業員が何らかの心の問題を抱えていることは、その分生産性が低下することに繋がる。さらに精神的な健康には、やる気に燃えている段階から、病気で仕事ができない段階まで非常に幅広い段階があり、単に病気を予防したり、病気からの回復を支援するというだけでなく、生産性に影響する幅広い健康の課題が存在する。
一方、メンタルヘルス不全の従業員による周囲への影響も無視できない。企業で「メンタルヘルスの問題」として対応している事例の中には、性格的な問題で対人接触のある業務を円滑に行うことができない従業員とか、急速な変化の中で自分の価値を見出すことができずに自分探しを始める人間的に未熟な従業員の問題など、本当に病気として扱うべきか、そもそもどこまでが病気で、どこからが病気以外なのか、判別が容易ではない例も少なくない。本来は、企業の責任の範囲を超えた個人の問題であり、個人および社会で対応すべき問題であるにもかかわらず、日本では、従業員を簡単に解雇できないため、ある段階まで企業で抱えざるをえない。さらに、このようなケースに何らかの医学的な病名がついたとき、それはメンタルヘルスの問題として認識され、保護されるべき対象になる。当初は、同僚など周囲の人たちは、病気として同情的な反応を示すが、容易には改善しないこれらの問題は長引くことによって、そのうち周囲の不満が大きくなり、モチベーションに影響を及ぼす。すなわち、本人1人の人件費以上の損失を及ぼす。企業の担当者がいう「うちにはメンタルヘルスの問題があります」という話の中には、このようなケースがかなり含まれるのである。さらに、メンタルヘルス問題のもっとも不幸な結末である自殺が発生すると、ガンなど慢性的な疾患の結果の死亡に比べて、周囲に与えるインパクトは大きい。
このように、インパクトが大きい自殺が発生した場合に現実化する様々な経営上のリスクが存在し、その一つが訴訟リスクである。自殺が発生した時、過重労働などの何らかの特別なストレス状態にあった場合、それは労働災害として認定される。労働災害そのものは、事業者の過失の有無にかかわらず認定されるものであるが、民事訴訟が起きて、企業に損害賠償が命じられる可能性がある。さらに、そのような問題がセンセーショナルにマスコミに取り上げられれば、企業イメージの低下にも繋がる可能性がある。特に、体外的な注目を集めるような、合併、売却、その他の大きな経営上の出来事の際に自殺者が発生すれば、その被害者として、マスコミの格好の標的になる。
メンタルヘルス対策のあり方
メンタルヘルス問題は、人事や健康管理の問題を超えて、働きがいや生産性といった経営そのものの問題になっており、経営者が直接関与すべき大きな課題として認識されるべきである。その際、常に健康管理上の側面と経営上の側面の双方から、企業に合った適切な対策のあり方を検討すべきといえる。
(1) 健康管理上の側面:メンタルヘルス不全の予防
健康管理は疾病の治療ではなく、予防に重心をおいた言葉である。疾病の予防には、3つの段階があり、原因を除去して疾病を予防する一次予防、早期発見早期対応を行う二次予防、疾病からの早期回復を支援する三次予防がある。身体的な疾患であれば、食生活の改善や禁煙によって疾患を予防する場合には一次予防、健康診断により疾病リスクを判断して早期に対応を行う二次予防、疾病後の社会への復帰を支援するリハビリテーションなどの三次予防がある。当然、職場のメンタルヘルス対策においても、メンタルヘルス不全の原因となるストレスへの対処を行なう一次予防、メンタルヘルス不全状態を早期発見して早期対応を可能とする二次予防、疾病からの治癒経過において職場への復帰をスムーズにするための支援を行う三次予防があり、メンタルヘルス対策においてもこの原則により様々なプログラムが開発されている。
このうち、管理職教育や従業員教育を行うとともに、双方からの相談窓口を社内外に設置したり、健康診断時や長時間労働に対する産業医や保健師等の面接を通じたりしてメンタルヘルス不全状態を早期発見する仕組みを構築する二次予防や、メンタルヘルス不全によって病欠や休職の従業員を適切にサポートし職場復帰と再戦力化を行う三次予防については、ある程度成果の上がる方法が分かってきた。その際、管理職の役割は非常に重要であり、従業員の変化に対して意識を払い専門家にコンサルテーションを行うとともに、職場復帰に関しては就業配慮の調整を行う機能が求められる。一方、産業医の機能として一定の医学的判断をもとに精神科医等の外部資源を紹介するとともに、復職においては主治医からの情報を理解して本人および職場の調整をコーディネートすることが必要である。この産業医の機能は、精神科の専門医であることより産業保健の手法に習熟している専門家であることが求められる。もちろん精神科専門医が産業医として機能することはかまわないが、同じ医師が立場の異なる主治医機能と産業医機能を兼ねることは避けるべきである。さらに、外部の従業員支援プログラム(EAP)機関も増えてきており、社内の産業保健機能を補完する形で外部資源として活用することによって二次予防と三次予防の体制を確立することは可能である。
しかし、一次予防は容易ではない。そもそも、昨今の企業は、成果主義賃金体系や裁量労働制のように、従業員の自律を促す制度を導入し、それによって企業の活力を維持しようとしている。しかし、これらの仕組みをメンタルヘルスの側面から見ると、企業が従業員の競争環境を作り出し、ストレスレベルを上げて、活力を維持しようとしているように理解することができる。つまり、メンタルヘルスの一次予防とは、その原因であるストレスの軽減であるが、現在の人事施策はそれとは逆の方向にある。ストレス調査票として一般的になった「職業性ストレス簡易調査票」では、「一生懸命働かなければならない」や「勤務時間中はいつも仕事のことを考えていなければならない」という質問に“Yes”と答えれば、ストレスレベルが高いという判断がされる。それが真としても、その結果に基づいて、「一生懸命働かなくてもよい」とか、「勤務時間中に時々仕事以外のことを考えよう」といった対応をすることはできない。そもそもストレスを悪玉としてできるだけ軽減するという方向は、企業にとっても、従業員にとっても、疾病の予防ができたとしても、決して容認できないことである。こう考えると、ストレスを評価できても、一次予防を目的としてストレスレベルの軽減を行なうことは現実には困難であると言わざるをえない。
(2) 健康管理と経営の接点
二次予防と三次予防のメンタルヘルス対策を適切に実行することは、疾病の早期発見や早期回復によって、メンタルヘルス不全による人的損害やその他の経営上のリスクの軽減に繋がる。仮にそのような取組みの実施にもかかわらず問題が発生したとしても、企業が従業員の安全と健康への配慮を行っていたことになれば、訴訟による損害賠償のリスクを軽減することができる。しかし、メンタルヘルスの経営への影響は、ストレスによってメンタルヘルス不全状態に陥った従業員と周囲への影響以上に、従業員のモチベーションやモラルが低下することである。
そもそも健康を増進することと、疾病を予防することは同じではない。職場のメンタルヘルス対策は、イルネス(illness)ではなく、ヘルス(health)という言葉を使っている以上、心の健康そのものに価値を置いたプログラム、すなわち従業員が活き活きとしている状態を目指すプログラムが本来の姿であろう。疾病を減らすことを目的とした一次予防が前述のように困難であっても、従業員が活き活きしている状態を導くことができれば、知識労働が増えている状況において、生産性の向上と直結する話であり、結果としてメンタルヘルス不全の発生は予防できる、すなわち経営と健康管理の両方の成果を得ることができる可能性が高い。今後、メンタルヘルス対策の一つの方向性として、二次予防と三次予防に加えて、心の健康増進、すなわち従業員が活き活きするためのプログラムの開発と実施が考えられる。このような状態を生み出すためには、働く従業員が本来の自己を実現し、失われていたパワーを取り戻すか、すなわちエンパワーメントがキーワードになる。経営者、人事部門と、健康の専門家である産業保健専門家との共同作業によるプログラムが実現できれば、企業の発展にも従業員の幸福にも貢献できる、大きな可能性が秘めている分野である。

